岐阜県小規模授産施設 第25回総会 交流会の「意見発表に応募した原稿です。それぞれに自分の思いが伝わって来ます。
ユカさん自分について
私は、学校を卒業してから、1年3か月は、就職していました。そこでは、おばさんとうまくいかなかったり、本当は、1人でやらないけない仕事が、1人できなかったり、いろんなことがあって、毎日泣いていました。そのことをお母さんに話して、今は、みのりの家の作業所にいます。会社と比べると、給料が少ないけど、いろんなことが勉強ができたり、友達もいて楽しいです。そこで私が感じたことは、給料をたくさんもらえるよりも、無理をしないで、自分にあった職場で、仲間や友達といっしょに仕事をしていたほうが、いいかなと思いました。でもあともう少し給料がもらえるといいです。
「親と手をつなぐ会」(自立)の本で、知的障害という言葉を覚えました。その本で、知的障害のところには、字が読めない、計算ができないと、書いてあったので、私には、字が読めるし、計算はできるから、知的障害はないと、思っていました。ところが、職員とけんかをして、私に、知的障害があると知りました。よく考えてみると、人とうまくつきあえないし、パニックになるときもあるしと、考えてみたら、少しあるんだなと思いました。でも今は、時代が変わって、知的に障害があっても、時間をかければ、いろんなことが覚えられるし、仕事だって、いつかは、作業所でいいお金がもらえる時代がくると思います。
今私は、ひまわりの丘の、地域生活支援センターを利用しています。月に1回、交流サロンに行ってるし、寮育や、ヘルパー制度を使っていて、昔に比べると、土日が来るのが、楽しみになってきました。月に2回、ヘルパーさんと、近くの喫茶店に行っています。
私は、健常者と友達になりたいと思っていた時期がありました。でも付き合ってみたら、話が合わないでいうのか、分からないけど、やっぱり、私には、私のことを、理解してくれる人や、同じ障害を持っている人と友達になった方がいいと思いました。その方が、気持ちてきにいいと思います。
私の夢は、自分にあった職場ではたらいで、グループホームで生活することです。少ないお金で、生活ができることを勉強をしたいです。それと、いつかは、友達と一緒に遊ぶに行けれる時代が来るといいです。
12年間、みのりの家で勉強とかをして、いろんなことを覚えてきました。これからも、いろんなことを勉強をして、毎日が、おちつけれる生活にしたいです。
ケイジさん 何事も、行動あるのみ
今,みのりの家作業所にいって私なりにがんばって仕事をしています。
そのはじまりは、「みのりの家はどこですか」とワープロで打った紙を持って、私自身で車椅子に乗って、1人で 福祉会館に行って、事務局長さんに見せました。
「それならこのおじさんが、連れて行ってあげる」と、みのりの家に連れ行ってもらった今から14年前の7月15日のことです。
いってみれば、私の人間としての第2の誕生日です。
それまでは、いま思えば飼い犬のように生活していました。大きくなって脳性まひのアテトーゼがめだつようになってから15歳から33歳までは、家から外に出してもらえませんでした。たまにだしてくれても、車の中でまっているだけでした。
みのりの家に通うようになり、そして、いまは、月に一度 陽光園の交流サロンがあり、そこでで知り合いがふえて、外に出かけるときが増えたことは、私にとって大変うれしいことで、そのままつづいてほしいです。
ヒサユキさん じぶんについて
ぼくはみのりのいえにはいって、いろいろあったけど、みのりのいえにかよえて、しごとをやれてよかったです。
むかしは、バットをもって、ふっていたけど、ひざのしゅじゅつをしてからは、いまはいえで、テレビやカラオケをしてすごしています。あとは、えいがをビデオでみたりしています。
それから、または、みのりのいえでいろいろなはなしをしたりして、すごしています。
ぼくは、いまはなにもくいはないけど、ひとつだけ。それは、ひざのしゅじゅつのあとに、あしのこかんせつがいたいことだけがなやみです。あとは、なにもありません。
まだこれからも、むりをせずにがんばります。そしていえのせいかつも いまもたのしいので これからもっとたのしみたい。
あと ぼくはほんをよむのは にがてです。
とくいなのは、うたをあんきすることです。
それとだいすきなはいゆうは たかくらけんとすがわらぶんたです。
これからも がんばります。
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